加盟者の声

 
 

【タイトル】卸店営業マンの:半サラ:半メガネ
 
【加盟者名】藤岡  正 
 
私は平成3年12月25日中四国九州一辺を拠点とする卸店〔逢坂屋〕を
家庭の事情で退職し、故郷である中国山地の真ん中にあり過疎化の一途を
たどる新見市へ帰郷しました。
卸店在籍中の23年間はと云うと、広島、山口、島根、鳥取と駆け回り
第一線の営業に奔走し、取締役広島支店長代理としての責任を負い、
売上目標達成に四苦八苦する毎日でした。
立場上、自分の本音は言えず率先して売上確保に努力せればならぬ日々が続き、
後輩にまで本音と建前を使い分け、ひたすら本社の機嫌取りに奔走しておりました。
得意先に対しても、売上欲しさ故の機嫌取り人気取りを繰り返す日々が続いていました。
市場は自社から殆ど仕入れをしないタナカさんや三城さんの台頭により
主力得意先である中規模、小規模店の売上は毎年減少の一途でした。
特に広島市内はタナカさんの市場占有率が60%と独占状況となり、
そこに三城さんの出店攻勢ですから小規模店の業績は悲惨な状況となり、
売上はタナカさんや三城さんが出店していない田舎で確保せざるを得なくなり
その田舎もいつ出店があるか判からない状況で、将来に大きな不安を感じていましたが
具体的な打開策を打ち出すことも出来ず、不安な日々を過ごしていました。

この厳しい状況の中、21の第1号店が出店しました。
今でこそ、21が成功した理由はよく理解できるのですが、その当時の広島で
仮に成功しても何とか食べて行けるのがやっとだろう思ってしました。
しかし、21は予想に反して奇跡的な急成長を遂げ店舗もどんどん増えてきました。
得意先の地元小規模店は21の40%引き商法と同じ市場に自分達より後から
出来たにもかかわらず、上手く行っていることも面白くなかったのでしょう?
21に反発する小売店も多く、21との取引の話題にならないように勤めましたが
どうしても話題が21のことになり、
売上欲しさに小売店の話に同調することで機嫌取りをしてしまい、
結果として21悪口となってしまいました。
その頃です、21のアライアンス計画〔協同仕入れグループ店募集〕を知りました。
私は本能的にこれはまずい、得意先に加盟させると死活問題になると判断していましました。
それからはアライアンス計画を取引先に話すことは禁句とし、
聞かれても正確な情報提供をしない様になってしましました。

今、思いますに自分が独立する時には21グループに加盟し、
加盟させて頂いたお陰で大成功することが出来たにも関わらず
私が卸店勤務時代に自己都合だけを考えず、もう少し得意先のことを真剣に考え
正確な情報を伝えてさえおれば、多くの得意先にも私と同じチャンスをお伝えする事が
出来ていれば、21グループに加盟された得意先も有ったのではないかと思いますと
悔いがのこります。
特に元得意先の廃業や自己破産をされた話を聞きますと
大きな罪を感じますと同時に大変心苦しく思っております。
この場をお借りしまして深くお詫び申し上げます。

帰郷後の私は建設機械の営業マンとして地元企業に就職をいたしました。
しかし、何分にも田舎ですので25万円の給与を貰うのやっとでした。
営業一筋でやって来た私ですがさすがに売上0の日が続きますと自信も失います。
他業種の厳しさも知りました、1年が経ち少しは仕事にもなれて来ましたが子供の
教育費など将来のことを考えますと収入面での不安は拭いきれません。
そこで考えたのが土日のメガネ店です。
先ず家賃の安い物件を探し、平日は家内に店番をさせ、店番だけでは勿体ないのでベルト、
財布などの雑貨も販売し、土日は自分が店に出てメガネを販売する。
そうすれば25万の給与も失わずに副収入もできると云う計算です。
幸か不幸か以前の経験でメガネ店経営の難しさはよく知っておりました。
正直に申しますとメガネ店経営に自信が無かったのです。
しかし田舎の土日しか営業をしないメガネ店では有利な仕入れどころか
品揃えをするのも大変だと思いました。
元の勤め先から仕入れをしても大した仕入れも出来ないので安くして欲しいとも頼めません。
それどころか、同地域で他の小売店と取引が有りますので反って嫌がられる可能性も高いと
思いました。

そこで目を付けたのが大量に仕入れをしなくても安く仕入れが出来る21のシステムでした。
広島で卸業をしている後輩の岡部氏に頼んで加盟の面接を申し込んで貰いました。
さっそく、本部を訪ねまして平本さんのと面接で私の要望をお願いしてみました。

〔平本さん〕
「郵便局にも普通局と特定局があるように考えればメガネ店にも特定局が有っても
 良いんじゃない、元卸屋さんで土日のメガネ店おもしろしですねやってみましょう」
と言って下しました。

数日後、研修のため己斐店を訪問し、三村さんにご挨拶させて頂いた時の話です。
三村さんには以前より面識も有りましたので安心して土日メガネ店のお話をさせて頂きました。
今思えば、当たり前と言えば当たり前なのですが、

〔三村さん〕
「なんじゃー土日だけのメガネ店じゃー、
 それで21の看板じゃー、わしゃー聞いーとらんぞ、そんなの駄目じゃ
 平本がOKしたじゃー直ぐ平本に電話せー」と激怒されました。

私はどうしよも無く右往左往のビビリまくりです。
平本さんから三村さんへ「判りました私がご説明させて頂きます」と言って下さり
私の変わりに説明して頂きました。

〔平本さん〕
「世の中には半農半漁と云う言葉がある様に、半サラ、半メガネ店が有っても良い筈です。
 いずれ、21は山の中や海の中にも出店するようになります。
 この方は自分の費用で21が山の中に出店したらどうなるか確認してくれるのです。
 三村さん、21のためにサルとタヌキとキツネが多い山の中でやってくれますか? 
 三村さんがやってくれるのであればお断ります。私はどちらでも結構です」

平本さんの強引な説得です。
さすがの三村さんも全てを納得されいないご様子でしたがお受け頂きました。
あの時の光景は今でも鮮明に覚えています。
もし平本さんの助け舟がなかったら今の私も店も存在しません。
今でも感謝いたしております。

己斐での研修も何とか終わりサラリーマンと兼業の土日祝日メガネ店をオープンさせて頂きました。
オープンの業績は私の心配とは逆の大盛況でした。
オープンと言っても土日営業ですからオープン3日目から店番は家内だけです。
しかし、チラシを見られたお客様は平日でも来店されます。
来られたお客様には、家内から、申し訳ございません、メガネは主人がやっております。
土日だけ主人が居ります、お急ぎで無いようでしたら土日にお越し頂ければ
メガネをお作りする事ができます。と断る仕事だけ家内にさせていました。
2週目の土日は、お渡しとお買い求めのお客様が重なりパニックになりました
仕方なく平日の夕方5:00時から店に出て加工をしていますとご購入のお客様が
来られ、販売をしながらの加工をしないと回りません、毎晩12時近くまで店を開ける様になりました。
オープン1ヶ月間の売上は200万を超えていました。
2が月目の売上も200万になり、経営の不安も無くなりましたところで
勤め先を辞めさせて頂きメガネ専従に成りました。
専従になったご報告を三村さん平本さんに致しましたところ、平本さんより
直ぐ勤め先を辞めることになると予測しておりました、頑張って下さいと
励ましの言葉を頂きました。
お陰様でオープン後の売上は上がり続けH13年には年間売り上げは5000万を超えることが出来ました。
しかし反省させられる時が来ました。三城さんの郊外型路面店の出店です。
それまでの攻める立場から一転して一番難しい守る立場になってしまいました。
オープン以降、店補の移動や増床もせずに小さな店舗で売れるのでと怠けた
手抜きの隙を付かれた出店でした。
今、言っても言い訳にしかなりませんが、
移転して大きな店舗にしたいとは思っていたのですが、危機感が少なく、もし良い所があればと
思っていただけなので移転場所を見つけ出すことも出来ませんでした。
完全な手抜きだったと反省する毎日です。

この文章を書きながら気が付いた点があります。
今までの自分の予測や価値観には間違が多かったと云う点です。
これからは自分の予測や判断には間違いが多いことを自分自身で認識し
常に本部の考えからずれていないか、お客様の価値観からずれていないか、
自分だけで判断せず本部やFC仲間に相談させて頂くことで確認しながら
歩んでいくことが大切だと思いました。
今後は、今までご支援頂いたお客様へのお返しの為にも
心機一転もう一度初心に返りまして21として恥ずかしくないメガネ店作りに
勤めさせて頂きたいと思います。